◆生徒の視点から見た学習内容の精査も必要なのではないか?(※勝手な個人的な思い込み…)

◆生徒の視点から見た学習内容の精査も必要ではないか?(※勝手な個人的な思い込み…)

教養を身につけるために興味のあることを漠然と勉強したり、時間に余裕がある場合、ライフワークとして一つのテーマを追いかけて行くという姿勢や、生涯学習という考え方もとても意義のあることかもしれないが、こと小学生や中学生に限ってみれば、教科面だけが学校教育の目的ではないにしても、とくに教科学習の時間は、かなり限られているのものである。

以前と比較して学習内容が増えてきた現在においては、その学習内容が生徒にとって定着するまでの時間数が十分であるかということを考えると、教師の指導力うんぬんは別にしたとしてもなにしろそのテーマの授業の絶対数を見ただけで首をかしげたくなるのは、わたしだけであろうか?

どれだけの生徒が学習内容がどれほど理解されているのかは定期テストや単元テストである程度、測定できるはずである。教える側の指導力・指導方法ということも確かにあるのではあろうが、それよりも、学校で使われている基礎学力を補うための補助教材の問題集がどれほど授業で消化されているのかという点を見てみると、ややもすると自習用として使われているといっても過言ではないような気がするのである。これは、学校だけでなく当塾においても同様のことが言える気がする。それは、授業時間数を考えるといたしかたがないことともいえる。

これは、学習項目の多さとその内容が段階的に生徒の理解できるだけの授業時間数が果たして少なくとも確保できているかという大問題が背後に隠れているような気がするのである。

確かに、文部科学省の出している学習指導要領を時代的に概観すると、その時どきの世界の教育情勢が反映されており、さらに、日本国内における必要とされている教育の目的の変遷を見ることができる。そこには、生徒が身につけるべき学習内容やそのことを学習する意義は明白に見てとれるのであり、教科書内容もそれにともない改定されているのである。

それによって学校でも指導されているのは、確かにそのとおりである。

ただここで私が感じるのは、単純にその学習内容が定着するに足る学校での授業時間数が十分であるのか?という単純な疑問である。やや乱暴な言い方をすれば、科目の総時間数を単元の項目数で割り算しただけの年間指導計画に基づいた指導案では、果たして現在の生徒の理解力を育てることになるのかという極めて単純な疑問なのである。

当然、教科によっては前学年や小学校で学習した内容が未消化のままでは、そこまで戻ってやらなければならず、当然その時間も加味しなければならないのはもちろんのことであり、ソウイッタ時間まで考えると、わたしは、とてもハラハラしてしまうのであるが、私以外の先生方はどう考えていらっしゃるのだろうか?

とても気になるのである。

題名に掲げた「生徒の視点から見た」という表現は、決して生徒におもねると言う意味でない。

想像することは実に難しいが、もしも、わたしが全く予備知識がなく、現在の時間数で学校の授業を中1で受けたとしたら、果たして理解できるのだろうか?

正直なところとても不安である。もし、理解できないとしたら、恥ずかしいから、『裸の王様』に出てくる大人たちのようにみんなにあわせてウソをいうのであろうか?いや、最後に出てきて本当のことを言った子供のように「王様は裸だ!」と言える自分になりたいものである。つまり、自分の能力のなさかもしれないが、「さっぱり授業はわかりませんよ。」と正直に叫ぶだろうな。