◆用語の意味の理解について

◆用語の意味の理解について

中学の各教科書の記述内容において、生徒が、そこで使用されている用語の意味をどのくらい理解しているかは、教科や学年やもともと生徒がもっている関心の度合い等によってかなりの程度で違ってくることは当然のことであるが、これ(用語理解)がなおざりになってしまうと、教科内容の理解に大きく影響を与えるということだけは確かであろう。

また、「力」や「圧力」とか「生産者」や「消費者」などの用語の一例のように物理や社会・経済や生態学などの学問分野によっても、その使用されている意味は異なってくる場合の例は周知のように枚挙にいとまがない。

同様に、中学校の英語においても、その単語が名詞なのか動詞なのか、あるいは同じ名詞だとしても意味が異なる場合がいくらも出てくる。その他の品詞においてもしかり。

また、比例、反比例、一次関数、二次関数のそれぞれは分かっていたとしても、「関数とは何か?」ということは学校で学習しているにも関わらずこちらで説明を求めると「なかなかうまく説明」ができない生徒もいるのである。でも、内容が内容だけにそれもある面では仕方がないとはいえる。ところが、こういう生徒のほとんどは各分野の具体的な問題はよく解けるのである。

確かに教科書には丁寧にその用語の意味が、注として記載されているケースがあるが、その説明も生徒が完全に理解されているかというと果たして、どうであろうか?

また、教える側の私も、その用語の意味をどれくらい正確に理解しているかとなると、極めて表面的な意味はさることながら、歴史的にその意味の変遷や明治以来入ってきた外国語の翻訳からきた言葉は何気なくわかって使っているような気がするが、よくよく真剣に考えてみるとはなはだ自信がなくなるといっても過言ではない。そのように思われる教師の方も中には、おられるのではないかと勝手に推察しているのである。

いちいち、そんなことを深入りする必要はあるのか?というご意見もあろうかと思うが、実際、中1の生徒にとっては例えば、「英語」の単語の意味は一つだけと思い込んでいる場合や中3の「公民」の用語がどうもピンとこないから、わかりやすく噛み砕いて教えてくれという真面目な生徒のリクエストやその種の質問が大いにあるのである。

したがって、教科内容の理解にとって「用語の意味」の理解の果たす役割は、一見極めてちっぽけなことのように思えるが、決して見落としてはならないことのように思えてしかたがないのである。

確かに点を取らすのには、例題を説明し、類題をこなせばそれなりの成果はある。

しかし、「パターン」に「あてはめる」だけが学習の成果につながるとする傾向はなんだか気になるのである。さらに、それを理解したなどと生徒自身が曲解してしまうことについては、「本来の教科理解にとって、これで本当によいのか?」と自問自答せざるをえず、なぜか特に神経質になってしまうのである。

基礎である「用語の理解」からきちんと積み重ねていくその各教科の論理の過程を大事にし、それらを生徒みずからその教科内容を地道に身につけていく姿勢を大事に育てていきたいとますます反省しているこのごろである。