◆中学社会科(特に地理)の学習のあり方の時代的変容性
もっとも社会科(地理)学習の目標や理念自体は以前からそんなに変わらない共通部分も大いにあるのであるが、これは、私の誤解であるかもしれないが、その学習方法は私が中学生だったとき学校で先生が教えていたのとだいぶ違っていたような気がする。
たとえば、地理においては、どこでどんな鉱山資源がどのくらい採掘され、その関係でどんな産業と結びつき工業地帯を形成していったかなどが、やや語弊があるかもしれないが、わりと短絡的に説明されていたような気がする。(※現在においてもこれがあてはまるケースがあるのは紛れもない事実であるが…)
しかし、何十年か前と現在を比較すると、資源の埋蔵量においては、当時は、かなりアバウトなものであり(※しかし、これは当時の最先端の学問の科学的推定からすると致し方がないとも言えよう。)
さらに、後になって別の地域に新たな埋蔵量が確認されたり(※たとえば海底など…)、さらに科学技術の進歩により、今まで利用可能な資源とは認識されていなかったものが我々人間の生活に役に立つ有効な資源となるということも多々ある。
また、当時(私が中学生のとき)は確かに公害問題等、環境問題(※たとえば経済学においては外部不経済の問題などが…)が取り沙汰されていたが、今日ほど地球規模で環境問題が叫ばれていたかというとかなり疑問である気がする。
むしろ地球規模で危惧されていたのは、「資源の枯渇化」の方であるような感じがした。
あと何年で石油や石炭がなくなるということが叫ばれていたような気がする。
これは、私個人のたんなる思い込みかもしれないが、今から思えば、資源の限界の思想が叫ばれるようになったのは1973年のオイルショック以降の低成長時代の世界的雰囲気と共振したのではないかなどと邪推してしまうのである。
たしか、私が中学生の当時、新聞にケネス・E・ボールディング氏が「地球社会はどこに行く(ずいぶん、前のことなので題名はうる覚えであることは初めに言っておく)」というテーマで連載していたのをハサミで切り抜いていた。
もちろんそこには、化学者であり経済学者であるユニークな道標も示されていたのであるが、それとは別に当時の資源枯渇化の問題をテレビでやっているのを見て、これからどうなってしまうんだろうと不安になって頭を抱えたのを覚えている。
ここまで、ぐだぐだいろんな寄り道をしたが、かいつまむと、一つは新しい資源の開発要因・今まで見つからなかった資源の発見、環境問題を考慮に入れた場合のエネルギーを含めた資源の使用の割合等がいつでも変わりうる変数であるということだ。
技術要因、文化要因、制度要因、開発要因等のいわゆる先行与件が大いに生産にかかわるのと同時にグローバル化が少なからず影響を与える。
したがって私が中学生のときに習った埋蔵資源の量からだけ主にその地域の産業を規定しまうという学習の仕方と今は違うのである。
上述した変動要因を加味しなくてはならない。
そこで地理学も情報を駆使して調べる必要が不可欠になったのである。
今日、なくてはならない情報地理学の存在する所以である。
ここに、主体的な調べ学習の重要性があると考える。
ところが、社会科の地理においては、現在のことだけでなくそのようになった産業等の背景を時系列をたどり調べていくことも当然必要になってくる。
ここが、日々変わる世界情勢の中で、中学生がやるとなると指導者のアドバイスと下調べが大いに必要になってくると、思われる。
その点が私の中学生のころと社会科の学習法が大いに変容してきた点であると思われる。