◆ 中学「歴史」は暗記物?
(1)
ぼくは、中学校の時、歴史は覚えるのが苦手でどちらかというとあまり好きなほうではなかった。
それになんで歴史を勉強するのかという説明もなく先生がいきなり教科書内容に入ったものだから、どうしてぼくらが生きている現代に関係ない大昔のことを勉強しなければならないのかが不思議でならなかった。(ぼくのほうが今の生徒より幼稚であった。授業中に生徒に聞いてみると、ぼくよりずっと問題意識を持っている子がいるからである。ああ、恥ずかしい。穴があったら入りたいな。)
だから、13歳のぼくは全く歴史に興味が持てなかったのである。
(2)
鳴くよウグイス平安京(794年)、いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)などだ。
しかたがないから、それをお経のように唱えて覚えたのである。
もっとも、ぼくが中学校卒業後何年かして、鎌倉幕府については、1185年説というのもあるということを知った。
今では、主流ともいえるのかもしれない。
(3)
日本における国家独占資本主義が成立した時期についても、それぞれの学者によってその自分のよって立つ規準はあるにはしても、諸説があるというのが事実である。
(4)
この間、いつだか忘れたが、夜テレビで池上彰さんが出ている番組で面白いことをやっていた。
お腹がすいていてガツガツ夕飯を食べていたので、集中して見ていたわけではないので間違いがあるかもしれないが、以前は社会、特に歴史を学ぶとき暗記の傾向があるのは、戦前の歴史観に対して、戦後は史実に対してできるだけ忠実に、客観的に学習する必要があるから、そうなったのではないかといったニュアンスのことを言われたような気がした。(このように言ったのかは、正確には確認していないので、間違いだったら池上さん、ごめんなさい。)
(5)
これからの歴史教科書の内容は、ただの暗記ではなく、自分が主体的に考えていく歴史ということが重要になってくるようである。
さらに、昔は、世界史と日本史というのが分かれていたようだが、世界全体の中で各国史というものをとらえていく必要があるということである。
しかし、世界大戦とまではいかなくとも2国間の戦争もいろいろな国の利害関係がその背後で影響を与えている場合があるから、世界史的視点でとらえることの必要性は今突然起こったのではなくかなり昔から言われていたことである。
(6)
歴史を考えるうえで、どうしても避けては通れないのは、「歴史観」、「歴史哲学」の問題である。
それに関連して、経済学における「発展段階説」というのがある。
リスト、ロストー、マルクス、ゾンバルト、ウェーバー、ヴェブレン等枚挙にいとまがないが、さまざまな経済発展に関するものがある。
しかし、たとえ、部分的にはあたかも適合しているかに見えるが、すべての場所の歴史に当てはまるような最大公約数的なものでは、なさそうである。
その学者が見ていた限られた地域、また、その学者の未来に対する希望的解釈を含めた、価値判断は含まれていないか、バイアスはかかっていないかということを慎重に検討しなければならない。
そういったことも発展段階説に対する批判の一つと言えるかもしれない。
初めから歴史観ありきで出発した学習は、どこかで息詰まるような気がするのは、果たして、ぼくだけなのであろうか。
たとえ、客観的な史実だけを実証的に積み上げたとしても、一つの法則を導き出すのはそう簡単なことではない。
現在を知るために、そして未来を予想するために歴史を学習するのかもしれないが、いろんな史実から一般的な歴史法則を導き出すことは、まともに考えたら、相当大変なことである。
論理学における「一部のものから全体に及ぼす誤謬」もしくは経済学における「合成の誤謬」に関しては、指導者も学習者も相当に慎重にならないといけないような思いがする。
(7)
そのように考えると、今度の教科書改訂に伴う歴史学習の態度をぼく自身きちんと勉強しなおさなければならないという決心をした次第である。
(8)
お恥ずかしいことに近頃になって、遅ればせながらこの年になり、歴史はただの暗記物ではないということにやっと気づいたのである。
ただし、歴史学習のもうひとつの意義として、平和を希求するためというのも大きな要素である。
現代の国際情勢を見るにあたってつくづくそう思うのである。