◆社会科『公民』について思うこと
最近思うことを思いつくまま、だらだらとまとまりのない独り言を言おうと思う。
歴史や地理についても同様なことを感じるが、特に『公民』の教科書の「用語」について、果たして中学3年生がどれほど、その内容が理解できているか、を疑問に思うのは、果たして、私だけであろうか?これは、中学校で社会科を担当されている先生がたは、既にほぼ気付いていらっしゃるとは思うが、私は早急にチェックしてみることは極めて重要な気がする。
現行の政治制度論などについては、まだしも、例えば、「多文化共生」、「財政」、「金融」、「資本主義」、「グローバル化」、「帝国主義」、「環境問題」、「国際関係」、「社会保障」等々、枚挙にいとまがない。
また、「自由権」・「社会権」・「新しい人権」がどのような歴史上の人権概念に起因してきたかなどの歴史的経過も教科書には書かれてはいても生徒自身にそれらを繋げて実際に理解させるのには、相当、骨の折れることであり、どうしても時間が費やされるのは、いたし方のないことである。
また、これは、ある面では喜ばしいこととも言えそうだが、学校で、例えば、「AI」などをめぐって、賛成派と反対派に生徒を分けて、議論させたりしているようだが、教師がうまくそれらの議論を公平に進行していかねばならないのは、もちろんのことである。最終的には賛成派の問題点、反対派の問題点をあぶり出すことによって総合的にそれ(※例えば「AI」)について生徒自身に気づかせることがその授業の指導案の目標として肝要である。
賛成派と反対派がただ単に意見を述べて終わりにしてしまっては、あまりにもその討論の意義が薄められてしまうのではないか。(※もっとも、ディベート的思考を鍛えるという視点を重視することに主眼をおくのなら別であるが。)
アップトゥデートな話題を取り上げることは、現代社会で何が問題になっているかを生徒に関心をもたせる上で確かに有効かも知れない。しかし、ここでも議論する言葉すなわち「用語」がどのように規定されているかをあらかじめ不完全ながらも議論する生徒たちにその下地として共有させておくことも大切である。
そこで、まとめになるかどうかわからないが、生徒にとって「用語」の理解が曖昧のままになってしまうと、「公民」、もっといえば、社会科全般に興味を感ぜず、嫌いになってしまい、社会は暗記物という、極めて短絡的な発想を持つようになってしまうかもしれない。テストは満点をとったとしても、本来の社会科学習の意義はいかがなものかと思うのは私だけなのか?
次に、上述した教師が進行する生徒間の討論においても、この「用語」がはっきり定義されていないと、きちんとした議論ができないことは、もちろんのことである。
理科や数学においても、この用語をめぐる問題が多々存在する。つまり、日常の会話で使われている意味とは大きく異なっているのは周知の事実だ。まして、社会科で使われている「用語」はややもすると抽象的であり、立場によっては多義的ですらあり得る。
その意味で公民の用語について、生徒がどのくらい理解しているか、私自身、授業の中で再確認していこうと、大いに反省した次第である。
令和5年11月29日(水)