
❖【お知らせ】国語は、たまには教科書を離れてみるのも😙!
小学生も中学生も国語の時間に教科書を離れてみるのもそれなりの意味があるように思える。
時々、私も加わって短編を読ませることがある。
世界の昔話もいいし、サキの短編やオー・ヘンリーの短編などもいい。
オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』の翻訳などは、25年くらい前と今では、生徒の反応が違っているのに気づく。
25年くらい前の生徒の中には、作品の中のクリスマスのプレゼント🎁は、お互い欲しいものは、予め言っておくべきでは、ないか?という子が結構いたような気がする。
その子たちによれば、貧しい若い夫婦の若い旦那の金時計の鎖を買うために奥さんが自分の美しい髪💇を売ってしまい、また、夫の方は若い奥さんの美しい髪に合うべっ甲の串を買うために、自分の大切な金時計を売ってしまったということが解せないと言うのだ。
これは、この作品のテーマからは、離れているとは思われるが、読むことをしない子にとっては、
確かにその当時としての風潮は分からぬでもない。正直な気持ちなのであろう。
初めは、どう読もうが、読むことをしない子にとっては、読んだという事実が初めての経験なのだから、テーマを読み取れなかったからと言って一概には責められないのである。
それと、こういった読み方をするとは思わなかった私が迂闊であった。
そこで、もう一度私を含めて丁寧に音読しながら、彼(※オー・ヘンリー)のお得意の比喩を味わいながら読み進めることにする。
中にはこの話を知っていて、解説者さながらの解釈をする子もいる。
私の質問の仕方も今から思えば適切とは言えなかったのでは、と反省している。
授業の目標としては、この作品の主題について考えさせることにあったが、もう少し事前に生徒の反応を予測しておけば良かったのである。
最近では、同じ作品でも、質問からテーマを誘導する傾向になってきたが、それもよくよく考えると自分で無理にテーマを誘導するといったことにならないか?私が読んだ時の感想を無意識のうちに押しつけようとしているのではないか?
まして、現在の子たちが、私の目に見えない導線をはった聞き方が、テーマを誘導しているのではないかと思い、とんでもない解釈をしなくてきちんとテーマに近づくのを何となくつまらなく思うのである。
初めは、読む楽しみを味わってもらいたいということから、この読書を始めていたわけである。
準備不足でも、準備過多でも、読ませるという行為を自発的に起こさせるのは、真面目に考えれば考えるほど難しいという気分になり気が滅入るのである。
そうは言っても、卒業生が何年後かに顔を出し、「あの時、こんな本を読みましたよね。今はオー・ヘンリーの他の作品も読んでいますよ。」なんて言われると思わずうれしくなり、笑みが込み上げてくるのである。
最近では、サキの『開いた窓』などを読ませたり、川西蘭の短編を読ませたりすることがある。
案外評判の良かったものは、オー・ヘンリーの『アラカルトの春』や『黄金の神と恋の射手』である。
おかしなもので、こちらで何も言わないのに、自分で最初から読み返しているのである。
まだまだ読ませたい短編があるのだが…
ドイツのシュトルムの美しい文章も…
こんなことばかりやっていると国語の授業にならなくなるので、たまには読むということに少しでも興味を持ってもらえたらと思っている。
作品に直に触れて、感動や反発や兎に角自分で感じて欲しいものだ。
それには、教科書ではないけれど、短編がうってつけのような気がする。
読解力をつけるためには、遠回りのようでも、自分の心を震わせ、面白いとか、悲しいとかの感動する体験が、その基礎として大切な気がする。
令和8年 9月21日
西浜セミナー塾長 寺島英樹
