◆「捨てること」と「積み重ねること」の峻別と塩梅の難しさ」

◆「捨てること」と「積み重ねること」の峻別と塩梅の難しさ

 

(1)

「よく、やり方、方法を教えて下さい。」と言われることがある。

私自身も、この頃は同じようなことを他人に聞いてしまっているのに改めて気づき、はっとすることがある。

中身があまりにも専門化しブラックボックス化してしまい、原理そのものが見えにくい今日は、ますますこの傾向が強くなってきたような気もする。

これを便利になってよいと考えるか、そうではなく悲観的に考えるかは、一概に言えないのはもっともなことであるが、何か、われわれはできあがったものに当てはめることをもって学習だと思い込んでしまっているのではないかと思うのは、完全に誤りなのであろうか?

(2)

私自身もこの頃は自己反省しているのであるが、よく、生徒がわかるところまでもどってそこから順を追って学習していけば、必ずや理解できるといったAIを使った教材についての説明を受けるが、すべての教科について同様なことが言えるのか?という素朴な疑問が起こるのである。

確かに、数学などのように、論理的な積み重ねの部分が強くあらわれる教科についてはそのようなことがいえるかもしれないが、それとても図形、文字の計算、方程式、関数、証明、資料の整理、確率などの分野において、かなり生徒の理解度に偏りがあるのは、個人内においても生徒全体においても当然その傾向はあるのである。

しかも、それは、数学自体の問題だけではなく、その理解の基礎においては文章理解力を含む国語力も大幅に影響しているし、ある面における形式的数学を具体的な例で実感し理解する場合は当然、理科の実験結果の数値やグラフ化の理解もおおいに関係してくるのである。

(3)

国語においても、学習内容は文学的文章、随筆文、説明文、論説文、古文、文法などかなり広範に渡っている。

その一部のテスト結果が偶然できたとしても国語全般ができると判断してしまうのはいかにも早計である。

「読み」において論理的に理解するもの、声に出してよく味合うもの、感じるもの、自分なりに論理的に批判してみるもの、など実にさまざまな観点があるからである。

そこにおいて、まず、基本的には、著者の文の言葉の意味がまずは、わかっていなければならないのは、もちろんのことである。

さらに、自分で何かを表現してみることも大切である。

あと、相手に自分の言いたいことが伝わるかということも色々と試してみる必要もある。

もし、相手にうまく伝わらないとしたら、自分が言いたいことが、うまくまとまっていないこともあるであろう。

まとまっていたとしても表現の仕方がうまくない場合もあるであろう。

その場合には、いろいろ相手に伝わるように自分なりに工夫しなければならない。

どう相手に言いたいことを伝えるか「そのやり方」だけ聞いて、それだけでうまく、いくだなんて考えるのは、むしがよすぎるのである。

あくまでもそのヒントは、もらえるかもしれないが、本人による何回にも渡る「試行錯誤」はどうしても必要になってくる。

その他の教科もここまでもどれば、そのあとは安易に簡単に理解できるなどというリニアな思い込みは指導する上でちょっと危険なような気がする。

もちろん、社会に出てすぐに役に立つ実学としての教科もあるが、必ずしもすべてがそういうわけではない。

(4)

ただし、そんなに悲観的にばかり考えるのもどうかと思う。

中1だった生徒が中3になるころには、いろいろな教科を学習していく中で、以前と比べてより総合的にとらえることができるようになり、それぞれの教科の理解度も格段とあがってくるのをみると、われながら驚いてしまうのである。

(5)

最後に一言付け加える。

新しい知見によって以前の説明が完全に新しいものに訂正される理科などの領域なら、古い考え方は単に捨てればよいのであるが、社会科学などの場合、その時代にあった説明の仕方に変容し、その説明のよって立つ原理がある説に基づいているなどと考えられる場合、以前の考え方の上に積み重ねていくことをしなければならないときもある。さらに、その考え方に対する批判点も付け加えておくべきであろう。

そういう意味において、この場合は、古いと思われている考え方を完全に捨て去るというのは必ずしも正しくない。

わたしにとって、この「完全に捨て去ること」と「少しずつ積み重ねていくこと」の峻別・塩梅がとても難しいのである。

そんなことをこの頃ついつい考えてしまうのである。