◆ 今さらになって、なぜか「言うは易く行うは難し」?
最近、「わかる」とはどういうことか、ということがなぜか、塾をはじめた当初のように再び気になってきた。
私自身「わかる」とは、どういうことかということをよくよく吟味もせずにこの言葉を安易に使ってきてしまってきたことに、自己反省を込めて再考することにしたのである。
よく、わかるまで何回も教えたり、さらに細かい段階に分けて、順序だてて指導しさえすれば、必ずや理解できると思い込んでいるきらいがあるが、はたして、本当にそうであろうか?
生徒自身が、どの程度の基礎知識を持っているのか、ということがきちんとこちら側で把握できていないと、本当の意味での理解させることにはつながらないのではないか。
そう戻らなくとも、問題文そのものの言語的理解まで行きつくことがある。(※出題の仕方が適切とは思われない場合はもってのほかであるが…)
AIのように、そこ(理解されていないところ)まで戻って、また、そこから段階的にやりさえすればいいだけのことじゃないかと言われる方もいるかもしれないが、事は、どうも、そう簡単でもなさそうなのである。
なにゆえか?
人それぞれ、基礎学力というのが、必ずしも,リニア―に段階を追っているとは限らず、複層的に他領域の学力がオーバーラップして相互に複雑にリンクし、関係しあって発展しつつあるからである。
「同じ理解」と一般に考えられる場合もその理解の仕方については基礎的知識の蓄積の度合いや関連領域の組み合わせの違いから、厳密に言えば、粗密があり、「十把一絡げ」というわけにはいかないのである。
これは、われわれ大人についてもいえることであるので、まして、小学生や中学生などについてはなおさらのことであろう。
ただ、点数を取らせるには、その問題の解法のテクニックを教え、それに従って類題をいくつも解いていく練習をしさえすれば、確かに点を取ることにおいては、効果が上がるかもしれないし、実際その効果が上がる場合も多くある。実際私もそういう風にやるときもある。
しかし、ここからが大切である。
点数が取れたからといって、理解されたと断定し、そう思い込むのは、理解の観点からすると、ひょっとしたら、危険でさえあるのかもしれない。
もしかしたら、それは、ただ単に解き方の方法にのみに習熟し、当てはめることだけに成功しただけであって、本質的理解とは全く別物の場合もおおいに在り得るのであるが、生徒が良い点だと、理解度の習熟はすべて点数に置換され疑うことなく当たり前のこととして、深く考えず、生徒もこちらも喜び、鼻息が荒くなってしまうのである。
親の身になってみれば、何とか点数を上げてもらいたいと思うのが当然であろう。だから、理解そのものよりむしろ点数の取り方やその方法へとどうしても目が行く傾向があるのも仕方がないのであるかもしれない。
それに答えようとして、教える側もテクニック的なことに走る傾向が出てくるのかもしれない。
偉そうなことを言うわけではないが、このことは私の誤解であれば幸いと思っているが、教育界全般にそのような雰囲気が漂っているような気がしないでもないのである。
ところが、私の微力のせいか、なかなかどうして、このこと(理解の本質)をしっかり目指し、指導を実行することは、時間との闘いもあって、いくら事前に指導計画を準備したとはいえ、まじめに考えれば考えるほど、思ったほど簡単なことではなく一層骨の折れることである。
まさに、私にとって、今現在「言うは易く行うが難し」の状態なのである。
それでも、時間の制約という中で地道にやっていくしかないと思っている。
これが、何十年かぶりに出たちっぽけな結論である。
また、振出しにもどったとでもいうのか?
それがわかっただけでも、「まあいいか。」と思っている次第である。