◆「ちょっと見方をかえれば?」あるいは、「後になってみると?」
私が中学1年の時の国語を担当していた年配の先生は、現代短歌の歌人であった。でも、それについて知ったのはずいぶん後のことである。
毎回ではないが、時々、クラスのみんなに教科書の文章をノートに一時間ずっと写させている。そうだ。ジュール=ベルヌの『15少年漂流記』の抜粋だったのかもしれない。
私たちに写させている間、先生はというと…。
なんと、教卓の前の椅子に座って何やらずっと自分の持ってきた読みかけの本を読んでいる。もちろん、今日の国語の授業とは、全く関係のないもののように思われた。
でも、つまらない授業を聞かないで済むから女の子も男の子も黙って写している。
10分もすると飽きっぽい私は、だれよりも早くあたりを見回すのである。
中には、同じような子もいて、ずっと離れた席で、お互い目くばせをしているのである。
すると、それに気づいた、まじめな学級委員の女の子が私たちのことを恐ろしい怖い大きな目でじっと睨めるのである。
それでも、私たちがまじめにやらないと、先生のように「えへん!」と咳ばらいをするのである。
しかたがないから、またノートに写すのである。
でも、時計を見ても全然、時間が経ってくれない。
そのうち腹がぐうぐう鳴り始めたのである。その日は寝坊して家の出がけにパンを一口かじっただけであった。おまけに国語の前は体育の授業で校庭を何周も走らされていた。
ただ、ロボットみたいにノートに写すのがだんだんバカバカしくなって、先生の顔ばかり、見ていた。
どうせ、ノートだって、集めっこないや。
それに、先生も授業せずに、私たちにつまらないことをさせて、好きな本を読んでいるではないか?
すると、初めの方は読むペースがそんなに速くなかったのに授業の時間が終わりに近づいていくにつれて読むスピードが速くなっているようである。本のページをめくるのと目の動きからなんとなくわかるのである。
ちょうどチャイムが鳴る寸前に読破したようだ。
日直が号令をかけると、なぜか先生はポケットからよれよれのハンカチを出し、目を拭ていた。
今の時代なら授業をまともにやらないで、けしからんということになるのであろうが、私にとって、授業の終わり際に彼が私たちに見せた、頬に光る涙と深いため息のことばかりがなぜか、その時、気になってしかたがないのであった。
いったい、何の本を読んでいたのだろうか?
(※追記)
後に先生は、古文の授業の講師として図書館で一般の人を対象に講座をもたれていたそうである。母がそれに出ていたせいか、ある日先生が出版されたご本をいただいたらしい。母もちゃんとは読んでなく、どこかに置きっぱなしになっていた。この間、本を整理していたら、たまたま、ほこりをかぶって出て来た。短歌が載っているので、拾い読みをしてみた。現代短歌なので、私にもすんなり入ってきた。現代社会の変化の様子の描写が短い言葉で垣間見える。なんだか、先生の他の短歌の本も読んでみたくなったのである。
当時、母がこんなことを言っていた。「最近はね。ふるかぶの受講者の方が先生にこれをやってくださいとテーマを要望するのよ。来年は、源氏物語だってさ。かあさんは、先生が現代短歌が専門なので、それがいいと思うんだけどね…。予習が大変なんじゃない?でも、先生もそれにある程度合わせるみたいよ。」
ある日、郵便局の本局のそばで、目の不自由な奥さんの手を引いて先生が歩かれていた。やせてすっかり年老いた先生が強い風に飛ばされそうになっていた。思わず、彼をささえ、「先生、風が強いから、気を付けてくださいね。」と私が言うと「ありがとう。大丈夫ですよ。」と言って、くったくのない笑顔で私にほほ笑んだ。その強い風はおそらくは春一番であったのであろう。もちろん、先生は、私のことをあの昔の中一の生徒だとは思ってもいないに違いない。