「道徳教育⁉️」

「道徳教育⁉️」
 随分と以前のことである。
 私が小田原の高校で教えていた頃のことである。
 高校まで行く途中、市内の中学生が路上にくっついていたガムをヘラで取って缶に入れていた。
 なんと感心な子どもたちだろう!
 私は驚いた。自主的にガムを取るなんて。
 一クラスぐらいの人数である。時間は朝の授業前の時間帯であろう。
 みんな熱心に生き生きとした笑顔で取っている。
 すると担任らしい先生が時間が来たのか、こう言う。
 「後、5分ぐらいで終わりにするぞ!後で各自の缶に入れたガムの数を教室で書いてもらうよ!だれが一番多く取ったか競争だよ!」
 そう言われると、生徒たちはガムの数の取る競争は前にもまして熱心になり、ものも言わず取っている。
 なんだ、自主的にとっているというより、ガムの数の多さの競争だったのか?
 私は最初の感動は消え失せ、そう思いなおしたのである。
 高校の授業を終え、いつもの通りの緩やかな坂を下りながら朝きたところにさしかかった。
 いつも、そこは、ガムが捨てられていて
靴底にくっつくことがあったのだが、その日に限って、中学生の生徒たちが、理由はなんであれ、取ったおかげで、靴底にはガムがつかなかった。
 道徳的実践のために担任がやらしたことであるが、結果的には、私もその生徒たちのおかげで、靴について不快な思いは、しなかったわけである。
 倫理学においては、動機論と結果論の双方は存在するが、ガム取りのきっかけはどうであれ、これがその行為の道徳的意味合いにもつながることがあるのかもしれないと考えさせられたのである。
 誰かが、道がきれいになり歩く人のためになるということを言ってあげて、そのことが生徒たちの耳にでも入れば、生徒たちにとってより自発的な道徳的実践になんらかの形でつながるのかもしれない。
 またこれは道徳的読み物とは違った意味で実践につながるのではと小田急電車の座席から外の景色をぼんやり眺めながら思ったものである。
 令和7年10月2日