
🔷小中学校の学習はもう少し長い目で見る必要があるのではないか?(※自己反省を含めて)
とかく点数を取らせるためには、問題のパターンを類別化して、このパターンは、こういうふうにやるという解法のテクニックに
沿って、練習すれば、それなりに点数は取れる。
確かに、そのようにして学習することは、ある程度の成果はあるし、学校においても、そのように学習する場合もあり、教科書の編成もそのようになっている部分もかなりあるともいえる。
私自身も現在そのように指導することもある。
しかし、教科によっても異なる面があるが、どこで前段階が理解できていないかを一連の系統的な図によって把握するにあたって、コンピュータの流れ図によって、理解度の診断するのは、理解度をチェックするための問題をやらせることによって瞬時に把握できるかというと、その学力の基礎にあるものの多様性(その教科の学習項目の基礎理解・問題の言語の意味、問題が何を聞いているかの意味そのものの理解等)が、相互に関連しあっている場合がほとんどである。リニアーな表現で簡単に図式化できるとも思われないのである。
それにも関わらず志望校判定模試の結果の理解度チェックのコメントが何パターンの同じものになっているのを見ることがある。(※もっとも日本中のすべての模試を見たわけではないが、)
しかし、恐ろしいことに、先ほど実施している「こういう問題はこのようなパターンで機械的に解かせる練習」をさせると、答えはあっている場合がほとんどなのである。しかし、実は本当は、問題の本質は、よく理解できていない場合もけっこうあるのだ。
でも、100点を取れば本人も親も学校の先生も塾の先生(※もちろん私も含めて)もニコニコするのが現状である。
よくいろいろなところから聞くのであるが、「勉強の仕方(やり方)が分かりません。」とか「この問題の解き方が分かりません。」というのが有るらしい。
この問いの背後には、マニュアルがあってそれにしたがえば、必ずや正解が出るという思考様式があるのではないか。
以上のような偉そうなことを言っておきながら、「こういうパターンの問題は、このような手順で解くんだぞ!」と言っている自分が恥ずかしいのである。
それはさておき、例えば中学生を例にとると、中1、中2、中3と学年を追って見ていくと、言葉遣いとか、体の成長とかは別にしても、教科における学力(※どのように定義するかはひとまず置くことにし)、それなりに伸びてきているのを感じるのである。
その理由を考えてみると、いくつもの教科を学校で学習する中で自然と読解力や理解の仕方がだんだんについてくるせいもあるのではないか?
5教科に限定しても数学や英語や国語や理科や社会は相互に関連している領域があるからであろう。
パターンごとのテクニックも点を取るという目標からするとそれなりの意味はあるが、学力は長い目で見る必要もある気がするのである。
もちろん文部科学省の目指す「生きる力」も「主体的学習」も大いにけっこうであるが、長い間に自然と学力がついてくる面も見ていく必要もある気がする。
教育というのはとかく時間がかかるのである。
もっとも政府も教育そのものの系統的な関連を重視した新たな学校制度改革のデザインも考えているようであるが、それはそれでおおいにけっこうなことである。
令和7年 12月19日
