【ぼやき・パート(1)】
『なかなか難しくぼくの思い通りにならないこと!でも……』
「もし、時間が許せば、幼稚園くらいからもう一度やりなおせば、どうなるのであろうか?」などといかにもバカげたことを考えることがある。
しかも、このことを本人としては大真面目に真剣に考えているのは事実である。。
多分そこから何か見えてくるような気がするからだ。
体も今より小さく、知識も何一つないゼロからやり直すなら、まだしも、さんざん受けてきた時代や社会の背景の中で、良かれと思われたその当時期待された人間像に基づいた教育システムの中で繰り返し身につけてきた(身につけられてきた)輪だちの中に自分の車の両輪をとられてしまい、かなしいかな、なかなかそこから出られないのである。このようにつまらない例えなどを挙げず、単刀直入に言えば、別の考え方をしようとしても自分の思うようになかなかいかないということにようやく気づくのだ。
母蟹が自分の子蟹に対して「どうして母さんのようにまっすぐに歩けないの?」と言って叱るのであるが当の本人は横歩きをしているのである。(※もっとも縦に歩く蟹は何種類かいるのは確かであるが…。)このことは、教育者によっては自分の受けてきた教育の影響上とかくありがちなことで、決して笑えるようなことではないのである。たとえ教員免許を更新するために数週間、あるいは数ヶ月、研修を受けたとしてもその内実はそう簡単に身につくとも必ずしも言えない気もするのはぼくだけであろうか?
当然、教育者のはしくれと自負しているぼく(※実は、筆まかせに勢いよく調子に乗って言ってしまったが、そんなたいしたものではなくいつも辺りを見回せばどこにでもいるごくありきたりの普通のおっちゃんである。)の場合もこのことは十分該当するということは正直に白状せねばならない。
ところが、教育社会学的見地に立つならば、特に現代社会の目まぐるしい変化とともに教育のあり方(教育の目標を含む)およびそれに伴う指導方法が変化し、一部においては教育の対象そのものに新しいものが加わるという事態が出現するのは、ある意味では当然といえる。
この構造の形式そのものは確かにあてはまると考えてよい気もする。戦後の文部省もしくは、文部科学省の指導要領の教育の目標だけに限定して時系列的に今日まで、ざっと目で追っただけでもこの変化は一目瞭然である。
では、上述したぼくの抱えている問題意識は、一体どのような観点からとらえれば良いのだろうか?
これは、そう簡単に解決できる問題でもない。
では、すんなり諦めてしまうべきなのか?
ぼくはそうは思わない。
それには、2つのアブローチの仕方があるような気がする。一つは、自分の受けてきた教育を振り返り、今の世の中の観点から否定ではなく批判してみる態度を養うことだ。
もう一つは、今の行われている教育と社会の在り方について過去の自分の受けてきた教育や社会という観点から否定ではなく批判してみる態度である。
その際、どういう観点から批判したかを常に明白にしておかねばならないような気がなんとなくする。
この、一見するとあたかも矛盾するかに見える2つの見方から現状もしくは過去を反省をもって眺めるなら、多少なりとも、いくらかでも近視眼的な見方から逃避でき、何か得るところが浮かびあがるのではないか、などと期待してしまうのである。そして、欲を言えば未来についての指針にもなるのではないか?
しかし、これは「言うは易し行うは難し」であるかもしれないし「馬鹿の考え休むに似たり」という結果になるのがおちかもしれない。
そうは言っても、愚かなぼくはそうでも考えるしかないような気がして仕方がないのも本当のところである。
さっき「もし、時間が許せば、幼稚園くらいからもう一度やりなおせば、どうなるであろうか?」と問題提起をした所以である。😎🤓