◆コミュニケーション能力、それも大切だけれど…
今日、現代世界において、学校や企業やその他の諸々の組織において、コミュニケーション能力の育成が叫ばれている。
その背景の一つには、ぼくの誤解がなければ、グローバル化というものがどうやら挙げられるようである。
そういう現代社会の特徴をふまえ、教育において、とりわけ英語教育においてその傾向が以前と比べて著しく増してきているように思える。
我が国においては諸外国の教育のあり方や我が国のみならず、国際社会や国際経済の状況などを当然考慮に入れてのことであろう。
それは、教育社会学的視点から見て、国際社会の中で生きていく上での教育指針の変更として、社会に出てから、国内の組織や国際社会において意思疎通をスムーズに行うためのスキルを身につけ、社会に貢献するという点では、とても大切なことだと思う。
しかし、コミュニケーション能力とは言っても、もともと個人差があって、苦手な子もいるはずである。
何を隠そう、ぼく自身が小4まではそうであった。知らない人には、人見知りするのである。コミュニケーションの前段階のそのまた前段階だ。
ぼくは本牧の元町に住んでいたから近所に学校は違うけれどアメリカ人の子供もいた。ぼくは、英語は話せないし、彼らも日本語を話せないけどいっしょに遊びもし、よくけんかもした。でも、当時彼らと野球をやっていると、よくボールがなくなることがあった。そんなとき、けんかは一時中断し、日本人もアメリカ人も熱心に草むらをいっしょに探すんだ。こんなことがあったな。ボールを探していると、偶然、草むらから二つ出てきたんだ。すると、彼らもぼくらも、とってもうれしくなって肩を組んで踊るんだ。
小5になって、担任が変わって、討論会をやると何にも意見など言えない。ぼくは討論会などやったことがなかったからだ。
その先生のクラスだった子たちは、女の子も男の子もすらすらと意見を言うのである。しかも、その意見の根拠までしっかりと言うのである。さながら今で言う国会の議論だ。司会の進め方もなかなかである。バランスよく賛成意見や反対意見を要領よくまとめ議論をすすめていく。ぼくは、もう驚くばかりで目を丸くしたもんだ。
先生は、ぼくと同じように何にも言えない子たちを見て、あまりにもその先生のクラスだった子と違っているのを、目のあたりにして、しばらく考え込んでいたようだ。
次の日から日直の次の2人が朝の会で順に司会をやらされた。半年もやると何回か回ってくるのである。そのうち意見の言えなかったり、まして司会などとんでもないぼくや苦手の子たちもだんだん慣れてきた。一年も立たないうちに、喋ることに慣れてきたのである。
何年か前、自治会長をしていた時、青少年育成の関係で中学校に呼ばれた。どうも、その席が初めて小5のとき討論会をやった「コの字」になっている。
ぼくは、なぜか緊張してきた。だから、今日は何も喋らずじっとみんなの意見を聞いて帰るつもりであった。どんなことが話題になったかを聞くのも勉強だ。
終了前5分になったから、もぞもぞ帰る支度をしていた。すると、司会の先生がこともあろうにこうぼくに向かってみんなに聞こえるようなで大きな声で言ったんだ。
「今日一言も発言をしていない一丁目の会長の寺島さん、何か意見はないんですか?」
ぼくは、まさか、帰る寸前に当たるなどと思ってもみなかった。
みんながいっせいにぼくの顔を見るではないか?なんてこった!想定外だ。
「意見がないのなら無理にとは言いませんが…。」
この一言にさすがのぼくもキッとなった。
そしたら不思議なことに勝手にぼくの口がしゃべり出したんだ。
これまでの討論の結果を各学年主任の報告した順にまとめ、生徒たちの成長ぶりと学年とともに変化していく様子について私見を述べた。何日かして公民館に行ったら、僕の高校の先輩で違う丁目の会長で出席できなかっ方が「お前、なかなかいいこと喋ったんだって!」「いや、喋らせられたようなもんですよ。」そう褒めらたので、実は悪い気はしなかった。
小5の担任のおかげである。
つまり、何が言いたいかというと、コミュニケーション能力とは確かにスキルとしては必要かもしれないが、そんなに急に簡単に身につくものでもないと、自分の経験上から言える気がする。
それに相手を知るまでは、色々と誤解もあり対立もある中で次第に時間をかけて分かり合うものなのである。
当然、文化の違いも教科書には「多文化共生社会」ということが載っているが、相手の文化を理解のするのはそう簡単なものでもないであろう。だんだんにわかってくるものなのかもしれない。
それに、コミュニケーションは何も言語だけではなく、ボディーランゲージや笑顏などの表情や温もりも大きな要素である。
相手と交渉をする場合、例えば外交などの場合は国益を考え、ただ相手に迎合するだけではだめであることはもちろんのことである。
そうかと言ってものわかれに終わってばかりでも、これは、これで問題である。
ある程度の妥協も必要な場合もある。
とにかく、コミュニケーション能力を身につけることと同じくらい大切なことは、自分の考えを持ち、それを伝えることだ。ただ短絡的に形式的にスキルとしての意思疎通と唱えても、その中身を厳密に吟味する態度を養成しなければならない気がする。じっくり慎重によく考えてから発言しなければならないのはもちろんのことであり、それこそがコミュニケーション能力の基礎だと考えるが、どうであろうか?