★中学教科書で取り扱う内容の変化の1例について

例えば、中学校の理科における植物細胞と動物細胞の違いにおいて、20年以上前の教師指導書においては教師のテストの出題例として次のような事が書いてあった。

「植物細胞にだけあって、動物細胞にないものをあげよ。」

細胞壁と液胞と葉緑体を答とするような問題である。

この種の問題は当時市販されている問題集にも多く載っていた。

しかし、最近は、あまり出題されなくなった。

学問の進歩もそれに大きく関わっていると思われる。

 

また、中学数学における「集合」や「二つの円の位置関係」や「xの2乗に反比例する関数」についても取り扱われなくなった。

それとは別に「解の公式」は取り扱われたり、はずされたり(高校にもちあがったり)再び中学で取り扱われる様になったり目まぐるしい。

このことは、ゆとり教育に対する考え方の変化が大きく影響されていることは、周知の事実である。

中学英語においても、高校の学習事項であった仮定法などが簡単な形であれ、取り扱われるようになっている。

また、上の学年でやっていた過去形、現在完了、受け身等が下の学年に下りてきている。

中学社会科歴史においても以前は、ほとんどが、中2で終えていたのが、最近では、近現代史の重視と公民との関わりか、ほとんどの学校で第二次大戦後の内容を中3でもしばらく教えているのである。

さらに、うちの学区のほとんどの学校では、地理と歴史を交互にやる傾向がほとんどである。

地理なら地理、歴史なら歴史といったように、ある程度同じ教科をまとめて学習する中で生徒にとってその教科独自の体系的な理解もしやすいのではないかという気もするが、なにせ、教科書を終わらせなければならないがために、そのように細切れにやらなくてはならないのかもしれない。

中学国語においても特に、現代国語文法(※特に「橋本文法」に基づいた学校文法)においてはあまり学校で時間をかけない傾向が強く感じられ、実際、あまり体系的な理解と定着が不足しているように感じられる。

教科書で取り扱われている作品および説明文は時代の流れによって最近の作家や科学者の文章が取りあげられるのは当然であるが、わたしたちが中学校時代の教科書に載っていた太宰治の「走れメロス」や魯迅の「故郷」などに出くわすと、なんだか懐かしくホッとするのである。