★中学社会科における用語の問題
教科における用語の問題は、何も社会科だけでなくその他の教科においても、その科目の意図することを順序だてて生徒が理解する上で決してないがしろにできない問題ではあるが、ここでは特に地理や歴史や公民など社会科における用語の概念規定をしっかり理解しないままにしておくと、社会科という科目が生徒にとって、あやふやなものになってしまい、そのことが原因で社会科嫌いになってしまうのではないかと私は危惧するのである。
もちろん、実際、何十年も前の教科書と比較してみると、昨今の教科書の索引や用語集の説明などにおいてはかなり工夫がなされており生徒にとってもだいぶ親切になってはきているが、それでも、小学校における生徒の習得している言語のボキャブラリーについては、格段の差が見受けられるのは周知の事実である。
このことが中学校における生徒の理解度の差に繫がっているのはあきらかである。
さらに、このことからくる社会科に対する関心のあり方もおおいに違いがあるのは、中学校の社会科教師においても教科指導の過程でおおいに認識しているはずである。
たとえば「モノカルチャー経済」、「プランテーション農業」、「封建社会」、「産業革命」、「市民社会」、「資本主義経済」、「帝国主義」、「人権」、「政治」などの用語がどのような意味をもっているのかがきちんと説明できる生徒がどの程度の割合でいるのか、はなはだ疑問である。
これらの用語は社会科学習にとって非常に重要な基礎的概念を構成するものであるが、もう少し丁寧に時間をかけて指導すべきものと考える。
もっとも、より深く調べていくならば、これら一つひとつの「用語」においても学者においてさまざまな立場があることにたどりつくわけであるが、そこまで専門的なところまで中学では触れることはないとしても学習すべき最低限の概略については、教師はできるだけ中学生がわかりやすい言葉で説明する必要があると思われる。
それには、具体的な例をあげ、それを因果関係から丁寧に指導し、さらにまとめてみるといった教師側の工夫と生徒にとってどこが疑問に思っているのかの確認をそれぞれの段階で教師側でしていかねばならないと考えるがいかがなものか?
そのように丁寧に指導していくと当然、ある程度の時間がかかるのは仕方がないと思われる。
それでも、こういった指導をすることにより社会科嫌いを少しでもなくすにはこれらのことのメリットは少なからずあると思われる。
社会科をただ暗記科目といったものにしないためにも以上のことが今後ますます必要な気がする。
たかが「用語」の問題と言われるかもしれないが、されど社会科理解にとっての重要な「用語」の問題である。
こんなことを最近、私はなぜか思うのである。