🔷教科書(高校・中学)に見られる中国文明の叙述の変遷について


🔷教科書(高校・中学)に見られる中国文明の叙述の変遷について
高校・中学における教科書の「中国文明」の叙述について、たまたま持ち合わせた教科書についてだけ見てみることにする。
したがって、年度別にきちんと時系列に沿って分析したものでないことは、あらかじめ、明記しておく。
しかし、その教科書の取り上げ方の重きの違いから教科書の基礎になる中国史における中国文明の取り上げ方のニュアンスの違いが垣間見られるのではないかと思われるからである。
取り上げる教科書は、1.『詳説世界史(新版)』山川出版 昭和50年
          2.『三省堂 世界史[三訂版]』三省堂 昭和63年
          3.『中学社会 歴史 未来をひらく』 教育出版 平成24年
          4.『社会科 中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き』帝国書院 令和7年
の4冊である。約50年前から現在までである。

まず、1.においては、57ページの§2の中国の古典文明の中の「黄河文明」の項目で次のような記載がある。「前3000年ごろから、黄河の中・下流域の黄土地帯の住民は、原始農耕をはじめて、粟や黍を栽培し、豚・犬を飼い、竪穴や泥壁の家に住んで、村落生活にはいった。かれらは骨格上から原シナ人と呼ばれる。かれらが磨製石斧・彩文土器(彩陶)を用いたことから、西方の原始農耕文化との関係が推測されている。…」

次に2.においては、52ページの中国文明の起源の中の「東アジアの風土」の中で、次のような叙述がある。「…中国本土は自然条件によって一般に華北・家中・華南に分けられている。華北は淮河以北の黄河流域を中心とする地域で、乾燥帯に属していたが、黄土を利用する焼畑農業に適し、黄河文明もここにおこった。これに対し長江流域を中心とする華中は、南嶺とよばれる山脈で華南と分けられ、雨量も多く高温で水稲耕作に適し、のちには華南とともに中国農業の中心となり、華北の経済力をしのぐようになった。とくに長江下流域の江南は中国経済の中心として重要な役割を果たした。華北におこった文化はしだいに華中・華南に広がり、また、東アジア一帯にも影響を及ぼした。…」述べたあとに、「黄河文明」の叙述に入る。「[黄河文明]中国では、黄河流域の黄土地帯に、紀元前4000年ごろから原始的な農耕民が、村落を形成するようになった。かれらは、竪穴に住み、磨製石器を用い、あわ・きびを栽培し、犬や豚を飼い、農耕生活を行っていた。また、洗練された彩陶(彩文土器)が使われていた。このことから西方のすすんだ文化の間接的な影響があったことも考えられる。…」

3.においては、10ページにおいて、黄河文明というタイトルではなく、いきなり「中国文明」になっている。そこから引用しよう。「東アジアで、最も早く文明ががおこったのは、中国でした。紀元前6000年ごろ、黄土とよばれる肥えた土が広がる黄河の流域で、土器をつくり、粟や稗などの畑作を行う文化が生まれました。同じころ、長江の流域でも稲作をともなう文化が生まれました。…」

現在使われている教科書の4.においては、3、と同様に、最初の1.2.における教科書のように、項目としての黄河文明とは、記載されておらず、「中国文明」というタイトルから始まっている。20ページから引用しよう。「[中国文明] 中国北部の黄河流域には、農耕に適した土(黄土)が広がっており、人々は あわ や きび などの作物を栽培していました。同じころ、長江流域でも、気候に適した稲作が始まりました。作物の収穫が安定し、人口が増えると、二つの川の流域には、いくつもの都市がつくられ、中国文明が生まれました。…」

以上たった4つの年代の異なる教科書の叙述から中国文明を黄河文明に代表されるものから黄河文明と長江文明の双方を中国文明に併記するような叙述へとそのニュアンスの変遷の傾向が見てとれるのは、非常に興味深い。
かつての中国文明を黄河文明と同じようなものとしてとらえた説から長江流域の稲作文化をも含めた教科書の記述の変更へのきっかけは、その後の考古学の新たな発見と文部科学省の学習指導要領の改訂を反映したものと思われる。

令和8年 7月3日