★「合成の誤謬」すなわち「一部のものから全体に及ぼす誤謬」と「全体認識の難しさ」 

★「合成の誤謬」すなわち「一部のものから全体に及ぼす誤謬」と「全体認識の難しさ」

 

 

(1)

 

ぼくは、論理の展開の仕方いわば物のとらえ方として「詭弁」の一種として「一部のものからから全体に及ぼす誤謬」については特に気を付けるように子供の時から学校で口を酸っぱくして言われ続けている。

ずいぶん前に原書で読んだのであるが何版か忘れてしまったが、P.サミュエルソンの『経済学』(ECONOMICS)の最初にもこの「合成の誤謬」について記載されている。

その他の学問の著作においても、当然「論理学」に関する一般的著作や概論書においてもこのことは触れられているものもある。

 

(2)

 

もちろん、このことは「科学の論理展開の方法」や「相手の自分に対する説得の仕方に騙されないため」に特に大切なことである。

意図的もしくは本人が気が付かない場合も正しい推論をする場合または、合理的な論理展開をする場合、自然科学および社会科学を問わず、常に「一部のものから全体に及ぼす誤謬」すなわち「合成の誤謬」がないか、常に自己チェックをする習慣を身に着けることは必要不可欠な事項であろう。

しかし、「全体に及ぼす誤謬」と言った場合、「全体」というのはいったい何を指して言うのかというかなり厄介な問題に直面せざるを得なくなる場合だって当然ありうるのである。

確かに有限個の有限集合のようなケースや無限集合の場合もそれがさしているものが事前に明白に定義されている場合についてはさほど問題がなさそうである。

しかし、森のように生態系としての複数のシステムが相互に有機的に関連付けられている場合は、土、水辺、降水量、日当たり、動物、木、草の種類などに形式的には部分に分解できたとしても、食物網やその他のシステムという視点からとらえる場合、全体を部分の関係でとらえられないこともおおいに在り得るのであり、なおかつ日常茶飯事とさえいえるのである。

人体においても同様である。

骨格や筋肉や内臓や血管や神経や感覚器官やその他のものにバラバラに分解して解剖学的には人体は構成されているとも当然考えられるが、それらの器官としての働きの相互協調やその時々の体の状態から脳の命じる神経系の拮抗関係及びホルモンのバランスや神経伝達物質の放出の在り方、脳神経を伝わる電気的信号があえて局所的に偏る点などを見れば、その機能的側面から考えるならばいかに複雑に有機的に働いているかは、誰の目にも明らかである。

こうしたことを考慮に入れるならば、人体においては森林などと同様に必ずしも「全体は部分の総和である。」とは言い切れないのである。

 

(3)

 

宇宙を含む森羅万象においても、部分と全体の関係は実に複雑である。

全体は部分の総和であるというのが正しいと考えられるごく限られた場合においては、「合成の誤謬」の検証は時間をかけさえすれば、いや、コンピュータを使えばすぐに終えることが可能である。

反例を一つでも見つけさえすれば事足りるからである。

ところが、今まで見てきた有機体のように、必ずしも部分の総和は全体になっていない場合においては、いいかえれば、どこまでが全体なのかわれわれ人間にとってまだよく理解できていない場合においては、全体が見えない人間が置かれているごく限られた範囲における手近で身近な類似する例から法則を導きざるを得ないのである。

 

(4)

 

部分と全体の関係において、最初から全体認識ができてしまっている場合はよいとしても、むしろ、われわれの全体認識があらかじめできないケースの方が多いのかもしれない。

したがって、演繹法的な真理の在り方を帰納法に適応する場合(※そもそもそのようなことは馴染まないのかもしれない。)、おのずと無理が生ずる場合も多々あるように思えるのである。

帰納法から見つけ出された法則(※あるいは仮説と言ったほうが正しいかもわからない。)というものが、後に例外があるということから修正されたり、その例外を含む新たな法則を目指して行く姿勢には、われわれは寛大になる必要があるように思うのだが間違いであろうか?

その意味で、新しい発見にとって「一部のものから全体に及ぼす誤謬」すなわち「合成の誤謬」に慎重になりすぎて、「羹に懲りて膾を吹く」ということにならなければよいのであるが……。

ふと、そんなどうでもよいくだらないことが暑さのせいか、頭に偶然、浮かんだのである。